山陽リレーコラム「平井の丘から」
"Degrés des âges"(Degres des ages) 高橋 功[2018年10月26日]
“Degrés des âges”その(1) -19世紀フランスの人間発達観-
フランス北東部に, かつて版画産業で隆盛したエピナル (Épinal) という都市がある。19世紀, この地にあった工房が, 児童書や広告など, 大衆向けの廉価な版画の生産・販売で大きな成功を収めた [1]。その結果,“エピナル版画”という言葉は, 民衆版画 (images populaires) の代名詞ともなった [2]。
下図は, そんなエピナル版画のひとつである。“Degrés des âges”と題されており, 日本語では,“人生の階段”[3],“人生の階梯”[4]と訳されている。題目通り, 人生を表現しており, 夫婦となる一組の男女の誕生から死までが, 階段の昇降とともに10年刻みで描かれている。このテーマは人気を博したようで, 細部の異なる同種の版画が複数存在する。アリエスによれば, 時代の流行に応じて人物の服装が変えられていったということだ。なお, エピナル版画は, 芸術品というよりは工芸品であるがゆえか, 多くは作者も正確な出版年も不詳とされている。
私は, まだ学生だった20年ほど前, 発達心理学のテキスト[5]でこの版画に出会い, 興味をもった。なぜ発達心理学かというと, 当時のフランスに存在していたであろう人間発達に対する考え方を, 図に垣間見ることができるからである。そしてその発達観は, 現代のものとも多く共通している。図の男性は, 士官の象徴ともいえる二角帽を30歳で手に取り40歳で被っている。このことから, 現代と同様, 社会的なキャリアアップと中年期の発達が結びつけられていたことを推察できる。50歳を人生の頂点とし, そこから死に至る下りの階段がはじまる点も, 老いに心悩ませる現代人に通じるものがある。他方, アリエスが指摘する通り, 若年期の描写は希薄かもしれない。現代なら, 20歳までがもっと細分化されそうだ。
こうした資料としての関心もさることながら, 抽象的ながらも繊細な線で詳細に描き込まれたこの図は, 幼い頃, 自身の興味を津々とさせた少し高級な図解本を思い出させる。ゆえにこの図は, 私にとって純粋に好きな絵のひとつでもある。そういうわけで, 教壇に立ってからは, 担当科目の「発達心理学」で, 例年, 学生たちにこの図を見せてきた。学生たちも, 多くが興味を示してくれており, 嬉しく思っている。
“Degrés des âges”その(2) -共に何かを見る-
それは夫婦の視線に込められた意味である。図では, 40歳まで, 男女が顔を向き合わせ,視線を送り合っている。しかし50歳以降は一切向き合っていない。70歳の妻が夫を見ているようだが, 夫は妻を見ていない。彼らが目を合わせたのは40歳が最後ということだ。すべての版の“Degrés des âges”に当てはまるわけではないが, 幾つかのものはこれに似た描写がなされている。
これはいったい何を意味するのだろうか。夫婦間の互いへの関心は50歳で失われるということか。それとも, 50歳で天命を知り, 夫婦も各々の道を歩み始めるということか。いや, どちらでもないだろう。これは, 二人の関係が「互いに見つめ合う」ものから「共に何かを見る」ものに変化することを意味しているに違いない。その証拠に, 70, 90歳のときの妻が「ほら, あれ」と言わんばかりに何かを指さしている。
このように特定の対象への注意を他者と共有することを, 心理学では“共同注意(joint attention)”という。そして,狭義にそれは, 単に複数の個体が同一対象に同時に注意を向けているというだけではなく, 互いに相手が自分と同一対象に注意を向けていることを理解している状態を指す[1]。そのような状態の成立は思う以上に複雑で, 個体間の相互理解や情緒的交流が必要になる。
それゆえか, 私たちは, 共同注意の場面を見ると, その人物間の信頼関係を読み取る。「ああ, この二人は今気持ちが一つになったのだな」[2]というわけだ。実際, 私は, この夫婦が歳を重ねるごとに信頼関係を強めているように感じる。物思いに耽るように下を向く80歳のときでさえ, 何か同じことを考えている場面に見える。死に向かう階段を降りる二人が, 身体のみならず, 情緒的にも支え合っていると感じる。
ところで,私は“Degrés des âges”の図を知って20年以上経つ今になって,ようやく上記の事柄に気づいた。この気づきは,自身の心境の変化によるものと思う。そしてその変化は, 恐らく,加齢によるものだけでもない。両親, 妻, 友人, 同僚, 学生など, 信頼できる様々な人々との「共に何かを見る」体験の積み重ねが, この気づきを導いたと思う。改めて, 多くの人に感謝を申し上げたい。
人はどのような『場』で成長するのか~変わるインターンシップの意味~ 神戸 康弘[2018年10月16日]
先日インターンシップ学会があったが「人はどのような『場』で成長するのか」がテーマであった。これまでインターンシップは、通常の講義がメインだとすると、その“おまけ”のような位置付けだった。しかし今、その意味合いが変わりつつある。脇役から主役になろうとしている。米国のミネルバ大学は校舎を持たない大学として有名で、サンフランシスコ、ロンドンなど学期ごとに世界各地を転々とし課題解決プロジェクトを行う。スペインのモンドラゴン大学は、実際に「起業」し黒字を出すことが卒業の要件だ。
これらの背景にあるのは「人は教室の“授業”で成長するのか?」という問題意識だ。大学生にどんな場面で成長したか聞いてみた。「部活」が圧倒的に多く、次いで「アルバイト」「ボランティア」「寮生活」と続いた。これらに共通していることは全て「教室の外のできごと」ということ。「授業で成長した」という人は皆無だった。ならばこれらを授業にしてしまおうというのが、ミネルバ大学やモンドラゴン大学の発想だ。
実社会の課題を解決する授業は「共通の課題をチームで協力し解決」「結果が明確に出る」「自分の能力が増すとチーム力も増す」など部活に似た、人を成長させる枠組み(スキーム)が揃っている。インターンシップは今、課題解決型や起業家養成型まで出現し、大学教育のおまけから主役になろうとしている。神谷(2004)は「生きがいは、自分のしたいことと義務が一致したときに生じる」と言うが、課題解決型授業は「課題を解決したい&しないといけない」というある種の「心地よい義務感」が生じるのだ。
本学に地域マネジメント学部が誕生した。地域をキャンパスにするというコンセプトで、教室がメイン、外に出る実習はサブという考え方を逆転させた。1期生が入ったばかりだが成長が楽しみだ。そう言えば成長した場として学生2名が「東粟倉」と答えていた。課外活動で岡山県東粟倉を救うプロジェクトに参加している。着実に学生は成長しているようだ。その写真を載せこの文章を閉じたい。
神谷美恵子(2004)『生きがいについて (神谷美恵子コレクション)』みすず書房。