山陽リレーコラム「平井の丘から」
紫陽花に寄せて 佐藤 雅代[2018年6月29日]
梅雨の季節を彩る花と言えば、アジサイだろうか。中唐の詩人、白居易の『白氏文集(はくしもんじゅう)』に「紫陽花」と題する漢詩がある。「名前の分からない珍しい花木がある」と案内された寺で、白居易は詩を作り「与君名作紫陽花」とこの花木を命名した。ただし、中国のアジサイと日本のそれとは別種である。現在、日本でよく見られる手まり型のアジサイも、近代に品種改良されたもので、それ以前のものは、ガクアジサイやヤマアジサイを指すと考えられている。また、日本の古典文学作品において、アジサイは散文にはほとんどあらわれず、主に和歌や俳諧など、詩歌の題材とされた。
奈良時代に成立した最古の歌集『万葉集』には、アジサイを詠んだ歌が二首あり、そのうちの一首を引用してみる。
◆言問(ことと)はぬ/木すらあぢさゐ/諸弟(もろと)らが/練(ね)りのむらとに/あざむかえけり(大伴家持)
難解な歌で、解釈に諸説あるが「物を言わない木の中にも、アジサイのように移ろいやすいものがある」とする説に従うと、色変わりする属性が、文学の素材とされた早い例ということになる。紫陽花の色が変化するのは、土壌の酸度によるもので、酸性では青色、アルカリ性では桃色になる。
明治時代に歌人としても、俳人としても活躍した正岡子規は、紫陽花の色の移ろいやすさを人間の心の移ろいやすさに喩えた、次のような俳句を残している。
◆紫陽花や/昨日の誠/今日の嘘(正岡子規)
筆者が大学に専任として職を得た時「環境の変化に屈せず、他人の評価に惑わされず、自身の学問の誠を貫け」と励ましてくれたのは亡き恩師である。私はそれができているだろうか。自問自答する日々の中で、


はなみずきの会 谷一 尚[2018年6月6日]
本学中庭の池周囲に、花水木の苗木が植えられたのは1974(昭和49)年。花見可能となった87(昭和62)年から、この満開の花の下で毎年4月末頃、県内の外国人教師や留学生を招き園遊会が開かれた。筆者の一度目の本学赴任はその翌88(昭和63)年4月、新設の国際教養学科教員としてであり、懐かしい幾多の思い出が去来する。
憲政の神様、尾崎行雄が東京市長の12(明治45)年、ウィリアム・タフト第27代米大統領夫人の希望で3千本の染井吉野桜の苗木をワシントン市に贈った(一度虫害で焼却され、追加で2千本送る)返礼として、15(大正4)年に贈られたのが花水木。ポトマック河畔の桜は今も健在だが、日比谷公園や東大理学部附属小石川植物園に植えられたそれは、戦時中に敵国植物として引き抜かれたり、落雷等で枯れたりし、現在原木は筆者自宅すぐ近くの東京都立園芸高校にある1本のみ。本学の木もその子孫。昭和天皇の居間に戦時中も交戦国元大統領リンカーンの肖像画が掛けられていたのと同じく、その差のなんと大きなことか。
染井吉野と同じく花水木も、葉が出る前に花をつけ、花見に最適。北米原産とはいっても、東海岸からミシシッピ流域の自生で、もともとメキシコ領だった山岳部や西海岸にはない。筆者の大学同級生が園長・教授を務めていた東大植物園の切株は、戦後に掘り起こし、現在、尾崎ゆかりの憲政記念館に展示されている。日米と世界が辿った足取りをもう一度見つめ直すよい機会として、本学のはなみずきの会も復活させたいものである。
